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布をめぐる ~経糸と緯糸~

「 古布 」

古布記事

人は日々着る服を選び、服を身にまといます。衣服は自分のいちばん外側にあり、自分の世界と外の世界との境界のように私たちを包んでいます。衣服は布からできています。人は布を羽織り、まとうことで外の世界と繋がってきました。

人が布で身をまといはじめたのはいつのころだったのか、はじめは、外界から身をまもる毛皮のようなものだったのかもしれません。布をまとうことなく暮らすことに、いつしかはずかしさが生まれたときから、布は「食」と同じくなくてはならないものになりました。

日本に布が生まれたのは縄文時代。身のまわりに自生する植物から糸をつむぎ布が編まれました。高温地である中南米を原産とする野菜に人の身体を冷やす効能があるように、その土地で生まれた植物は、暑い地では涼しさをもたらし、寒い地では身体を暖める、それぞれの風土に根ざした織物を生みだしました。さらには、その土地で育つ植物で糸が染められ、その土地で信仰されている文様が織りこまれ、布に装飾がほどこされるようになります。

その土地から生まれた布を羽織ることは、おのずとその土地への誇りを生みだし、あるときは布によって美しさを装い、あるときは地位や身分を知らしめる手だてとなり、まるで自身の思考や精神の一部であるかのように布をまとってきました。

古布記事

古布とは、昭和初期までに織られた布のことをいいます。蚕がもたらされた地、木綿が育つ地、都からの位置といった地理的な要素に歴史的な流れが重なり、日本各地で特徴をもった布が織られてきました。江戸小紋、上田紬、丹後ちりめん、加賀友禅など地名とともに名前がつけられ、布のなかには、たたき染め、しぼりといった染めや文様をつくる日本の染織物のいくつもの技法を見ることができます。

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素材によって織物の使われかたは様々でした。絹織物は高貴な男性の着物に、綿織物は女中たちの着衣に、麻などは野良着として、日々の暮らしのなかで自在に形を変えながら、一枚の布が着物となり、はんてんになり、もんぺとなり、一枚の布が米袋となり酒袋となり、一枚の布がのれんになり、蚊帳となり、ふとんになってきました。布を羽織り身にまとい、布を広げて荷を運び、布を張って居をつくり、そして布にくるまり眠りにつく、まさに生活の道具としても使われてきた布。それらのものはすべて手縫いでつくられ、使われなくなると糸がほどかれ、また別のものに縫いあげられました。穴があけばつくろい、裂地があてられ、布は粉になるまで使われました。一枚の布を織りあげるまでのはてしない手仕事を思うとき、人びとにとって、布はそれほどまでに貴重なものでした。

明治のころまで麻の着用しか許されなかった東北地方では、厳しい寒さをしのぐため、農作業ですり切れた肩や背中を補強するため、布に糸を刺してきました。刺し子と呼ばれ、ただ糸を刺すだけでなく、そこに文様を織りこみ、ときには魔除けの意味をこめて、糸のひと針ひと針が縫われました。何代にも渡り縫い継がれてきた布には、生きていくためにつくされたつくろいのすべてが映しだされています。これらの布たちは「襤褸(BORO)」と呼ばれ、世界の染織美術・現代美術のコレクターのなかで高い評価を受けています。
 襤褸の多くは藍で染められています。藍染めの技法が中国から日本に伝わったのは飛鳥時代。藍には抗菌や消臭作用があるだけでなく、防虫効果により保存性が高まるとして、あらゆるものが藍で染められてきました。藍は着る薬でもありました。明治のころ、英国から来日した科学者が、町にあふれる藍で染められた美しい青を見て称した「Japan Blue」は、今では世界共通の言葉になっています。日本には、青、ブルーを示す言葉がいくつもあります。藍の色はうつろう四季の光のなかであせていきます。布の上で変わりゆく藍の色を見て、過ぎていく時を愛でていたのかもしれません。時を経ることによってはじめて表れる美しさが、一枚の布の奥深くに静かにたたずんでいます。

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人びとは着物を着、日本家屋に暮らし、四季の神事を行ってきました。戦後、生活様式が大きく変わっていくなかで、静かに消えてなくなっていったものもあります。
「無病息災」「開運招福」と刻印された美しい白い絹の布があります。子どもの初節句だったのでしょうか。お宮参りで神社に奉納されるはずだった布が、今ここにあります。布は語りかけてきます。布が見てきた風景を。経糸と緯糸に織りこまれた物語を。時や場所を越えそれらを再生する装置のように布があります。

協力
 古知野屋