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布をめぐる ~経糸と緯糸~

「 会津木綿 」

福島 会津若松

会津木綿記事

日本地図・会津会津木綿は、福島、会津盆地の南東、会津若松で織られる綿織物です。かすか遠く山々が町をとりかこみ、盆地特有の気候により夏はひじょうに暑く、さらに冬は極寒となり、一メートル近くの積雪が見られる年もあります。日本各地で木綿栽培がはじまったのは今から400年ほど前。会津若松でも綿の栽培がさかんに行われるようになり、綿織物が織られるようになりました。温かい気候を好む綿にとって、会津若松は、日本において最北の産地ともいわれています。

多くは野良着として使われていた会津木綿。会津木綿には、独特の色の組み合わせにより、いくとおりもの縞模様が織られています。伊予国松山から連れられた織師により伝来された「伊代縞」の技法が基とされています。その土地に自生する草木で染めた糸によって織られた織物には、地域によって色も幅も異なる縞柄、いわゆる「地縞」が生まれました。羽織っている縞を見れば、どこの村の者かわかったといいます。地縞が織りこまれた衣服を着ることで、おのずと自分たちが暮らす土地への誇りを身にまとっていたのかもしれません。台帳には100にもおよぶ地縞が残っており、その美しい縞が会津木綿の特徴にもなっています。

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会津木綿には、ほかの木綿織物と比べて通気性と保温性があります。織る前の経糸に小麦澱粉の液を染みこませのりづけし、そこに緯糸を通すことで細かな節ができ、布のなかに空気をふくむ層をつくる役割をはたします。空気をはらんだ布は、夏には風を通し涼しく、冬には温かさを保つことができます。厳しい気候で暮らしていく必要から織られた、風土が生みだした織物になっています。

田んぼが広がる一角に、会津木綿の織物工場で、現存する2軒のうちのひとつ、はらっぱ(旧原山織物工場)があります。120年前から続く織物工場です。自動車にさきだって豊田佐吉により開発された自動織機が、部品を替えながら大切に使われています。

反物として織られていたころのまま、布の幅は38センチ。そのなかに900本の経糸が織りこまれています。織機にかける前に糸を整えることを「整経」といい、900本分の経糸が、織られる縞の色の順に大きなロールに取りつけられて巻かれます。緯糸もまた「管」と呼ばれる道具に巻かれて用意されます。一本の管で70センチほどの布が織りあがり、どの色の緯糸を選ぶかによって縞の風合いが大きく変わってきます。

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整経された900本の経糸は、織機の「綜絖(そっこう)」というところに通されます。一本一本の糸すべてが手作業で行われます。綜絖によって経糸が引きあげられると、そのあいだを「杼(ひ)」と呼ばれる道具に入れられた緯糸の管が通りぬけ「筬(おさ)」が打ちこまれます。それにより経糸と緯糸が交互に織り重なっていきます。
 時間になると、並んでいた14台の織機がいっせいに動きはじめます。900本の経糸が上下し、緯糸が左右にいきおいよくかけぬけていきます。緯糸はいってはもどり、いってはもどり、このくりかえしです。経糸と緯糸のいくえにも重なる連なりは美しい縞となってあらわれ、一枚の布がゆっくりと織りあがっていきます。
 大きな音が鳴り響くなか、工員の女性たちが織機の間を行き交っています。
「耳を澄まし音を聞きわけることで、織機がどう動いているかを感じている」といいます。
 農作業の合間をぬい、女性たちに手によって織られた会津木綿。今も織機を動かすのは女性たちです。

会津木綿記事
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引きあげられた経糸の谷間をぬけて緯糸が走っていきます。いってはもどり。いってはもどり。このくりかえしのなかで、織り手は静かな湖にゆっくりと沈んでいくように自分の内なる世界に潜りこみ、奥底にしまわれていた日々の暮らしへの深い想いにたどりついていたのかもしれません。それらがまるで祈りのように、布のなかに織りこまれているように感じます。
「夏の暑さにもちこたえられますように。冬の寒さがしのげますように」
 機織りの音に耳を傾けながら、家族を想い、人びとを想い、それぞれが暮らす土地を想い一枚の布が織られています。
 窓のむこうから機織の音が聞こえてきます。

協力
 株式会社 はらっぱ