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布をめぐる ~南国の布をめぐる~

「 沖縄の布 」

沖縄記事

日本地図・沖縄日本各地に伝わってきたいくつもの染織物。現存しているものもあれば、跡形もなく消えてしまったものもあります。沖縄にはその源ともいえる染織物が、今も手仕事のまま残っています。島の北から南にかけて、材料も技法も異なるいくつもの多様な布の世界が広がっています。
 芭蕉が育つ北部の芭蕉布、貿易港として栄えた読谷山の花織、中部の知花花織、首里城をかこむように首里織、琉球びんがた、琉球絣。さらには久米島紬、宮古上布、八重山上布、与那国織とまわりの島々にもおよんでいます。
 染布、織物からはじまり、焼物、漆器、舞踊へと繋がる沖縄の奥深い文化にたどりつくとき、そこに、かつてこの地にあった王国の姿がゆっくりと浮かびあがってくるのです。四百五十年という長きに渡り続いた琉球王国。

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日本列島の南のはてに浮かぶ島、沖縄。海のむこうには、中国大陸や台湾が見えてきます。南方からは黒潮の海流が流れこみ、島に様々なものをもたらしてきました。この流れがもし別の方角をむいていたら、沖縄もそして日本もまったくちがう地になっていたかもしれません。海の流れが、今もむかしも沖縄を形づくっているように感じます。

大きな船に乗り、不思議な衣装をまとった使節団がやってきます。見なれない形に髪を結いあげ、聞きなれない言葉を話す人たち。海のむこうから届けられた箱は、お城の広間へと運ばれていきます。そこには目を見張るほどに美しい品々が入っています。箱を開く瞬間の感嘆する役人たちの声が聞こえてくるようです。

琉球王国は、大和、中国大陸、東南アジア諸国との交易のなかで、異国の文化を取りいれながらも、島の風土と美意識を合わせた独自の文化を生みだしてきました。なかでも染織物は、まわりの島々にも広がり、交易の品としてだけでなく、王家や士族の着衣、薩摩藩の侵攻以降は大和への貢納布として織られました。また琉球の布の特徴が色濃く表れる使われ方に、祭祀などで式を司るノロやニーガミ、ツカサといった神女たちの衣装や装具があります。神に捧げるものとして、王が身にまとうものとして、他国に自国を示すものとして、最高の布がつくられました。何世代にも渡り受け継がれながら、王国と民により技巧を極めていきました。

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しかし時代の流れとともに、明治になると琉球王国は処分という形で解体されていきます。王国という後ろだてをなくした染め師や織り手は、つぎつぎと廃業へ追いやられていきました。のちに染織家となり沖縄文化研究者となる鎌倉芳太郎は、店を閉じるびんがたの紺屋から型紙や染見本を収集し、荷台に乗せてまわったといいます。大量の写真を撮影し、話を聞いてまわったといいます。

日本民藝運動を起こした柳宗悦ら一行が、はじめて沖縄を訪れたのは、1937年の終わりのことでした。市場でわずかに売られていた染織物や焼物、漆器のあまりの美しさに魅せられ買い集め、帰京するとそれらを日本民藝館で紹介していきます。第二次大戦がはじまるわずか一年程前、琉球の文化が、本土の人たちの目に触れられた瞬間でもありました。王国時代に築かれた宝のような品々が、奇跡にも近い形で島の外に運ばれ、戦火から守られることになるのです。そしてこれらの資料が、戦後の沖縄文化の復興に大きく貢献していきます。それらは今も、沖縄県立美術大学、沖縄県立美術館・博物館、日本民藝館などで大切に保管されています。

戦争によりすべてを失った沖縄。かろうじて見つかった布の切れはしをたよりに、それぞれの地で、それぞれの織物を継ぐ人たちによる復元がはじまります。芭蕉布の平良敏子。読谷村花織の与那嶺貞。首里織の宮平初子。琉球絣の大城カメ、大城廣四郎。家族をなくしただけでなく、材料も道具さえ残っていませんでした。王国士族に仕えてきたびんがた宗三家の城間家の城間栄喜と知念家の知念績弘。軍用地図でびんがたの型を彫り、捨てられていた米兵のレコード盤を糊べらにし、口金に銃弾の薬莢を使い道具をつくったといいます。

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「わたしたちは大切にしてきたすべてを焼き尽くされた。生き残ったもので、これを復興させなくてはならない」消えいりそうになりながらも、いくつもの人の手により渡され繋ぎとめられた伝承でした。

島に流れる時間。島を包む波の音。人びとのたおやかな気質。沖縄という地だからこそなしえたことだったのかもしれません。
 かつてそこにひとつの王国がありました。沖縄の布に触れるたびに、時をこえ、布のなかに織りこまれたそれらすべてに出会えるように感じるのです。

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