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布をめぐる ~南国の布をめぐる~

「 琉球絣 」

沖縄 南風原町

琉球絣記事

日本地図・南風原町絣とは、糸をくくり染めることで白く残ったところを文様にして織りこんでいく織物のことをいいます。世界共通の言葉で「イカット」といい、インドネシアの言葉で“くくり”を意味します。インド発祥の織物で、琉球王国時代の交易の中継地であった久米島から沖縄へ伝わったといわれています。
 絣の文化は、東南アジアを中心に、中東イラン、シリアを越え、西はフランスやスペイン、さらには海を渡ってペルーやグアテマラにまで分布しています。

琉球絣もまた、沖縄の他の染織物と同じように王府に納める御用布として織られていました。一般に着ることが許されるようになったのは、王国が解体したのちのこと。身分によって着ることができる絣の文様や色が決まっていたといいます。

琉球絣の多くは、沖縄本島の南、首里に隣接する南風原(はえばる)町で織られています。王府の直轄地であった南風原町は、多くの織り手がいた地域でもありました。今でも40近い工房があり、200人に近い人が織りにたずさわっています。

琉球絣では、経糸で絣をつくる経絣(たてがすり)、緯糸で絣をつくる緯絣(よこがすり)、さらには経糸と緯糸でつくる経緯絣の三様が、織り交ぜられてつくられます。大和の織りとも東南アジアで見られる織りともちがう、独自の技法によって織られ、その織りによって、布に漂うような空気感が生みだされます。

織りこまれている文様は、鳥や花などの動植物、星や雲といった天体、ハサミや銭玉など生活道具を図案化したもので、種類は600とも700ともいわれています。トゥイグヮー、トー二など沖縄の言葉で呼ばれ、なかには犬の足跡、豚の餌箱、人の眉毛といったものまであり、南国の暮らしに根づいたどこか微笑んでしまうようなものであふれています。これらの文様が組み合わされて、一枚の布に織りこまれています。

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琉球王国時代、王府からくだされる発注は、絣の文様や色がこと細かく描かれた「御絵図帳」によって渡されていました。いわゆるデザイン画です。その絵と寸分でも違うものであれば、織り師だけでなく村の長や監督役人まで罰せられたといいます。明治以降、王国の解体により、沖縄の他の織物と同様に琉球絣もまた衰退の道をたどっていきます。そしてその後、戦争によってすべてを焼けつくされた南風原の地で、人びとはまた機織りをはじめます。材料には、漁師が使っていたロープをほどき糸にしたといいます。戦後の琉球絣の復元に使われたのが、かろうじて残されていた御絵図帳でした。
 母が機を織る姿を見て子は織りを覚え、その母もまた、自分の母が機を織る姿を見て織りを覚えてきました。琉球王国が何世代にも渡り、民に根づかせたものだったのかもしれません。

30以上の工程を経て織られる絣。長い糸の束が張られ、織る文様にあわせて位置を測りながら、染め残すところをくくっていきます。糸をくくり、染めるのは男の仕事、機を織るのは女の仕事でもありました。男たちが染めた糸を女たちが織っていきます。女たちが筬(機織りの道具で、経糸を整えるもの)を打つ機織りの音が響いて聞こえてきます。織りあがった絣の文様を見るたびに、途方もないほどの手仕事の連なりを感じます。

琉球絣記事
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色絣で黄色をだすために使われるのは、福木の樹皮です。黄色は王の色、高貴な色とされ、位の高い人の衣装のなかに織られてきました。福木は200年を経てようやく使えるものになります。 「自分たちが使っているのは、ひとつ前の世代のもの。今植えてる福木は次の世代が使うもの」

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濃紺に染められ透かした布に、つばめの文様が織りこまれています。夏に着る絹の絣です。布の上を飛び交うのは、つばめのつがいです。その下を小川の文様がせせらぎ、川の上では蛍が光を放ってまたたいています。つがいのつばめは子孫繁栄をあらわし、蛍が飛びかう風景は、川が清らかなことをしめています。絣の文様をひとつひとつひも解いていくと、布いちめんに、南国の夕闇迫る初夏のひとときが、絵巻物語りのように広がっていきます。まるで天国にでもいるような風景を想い起こさせます。

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協力
 大城廣四郎織物工房
 おおき屋
 琉球絣事業協同組合